『民主主義とテロ(前編)』 の続き
どうもSHIBAです。
テロ集団として注目されている「イスラム国」
彼らの理念はイスラム法によって統治されるイスラム国家の樹立。
この理念は何も今に始まったことではなく、
古くは戦後すぐにエジプトで誕生したムスリム同胞団にまで遡ります。
民主主義というより西洋的な世俗主義に抵抗した組織です。
「宗教vs世俗」といったところでしょうか。
かつては西洋における植民地支配が世界を覆っていましたから、
戦後は各地で独立運動が盛んになりました。
「○○民族解放戦線」といった軍事組織が世界各地で誕生します。
やがて精神科医ファノンの著書『地に呪われたる者』で説いた
「暴力は植民地の住民を解放し尊厳を回復する手段である」
という考えが反体制組織の過激派(テロリスト)を形成していくことになったそうです。
ところで「テロ」と「ゲリラ」の違いって何か考えたことありますでしょうか。
ゲリラといえばキューバ革命時のチェ・ゲバラによる戦法で有名ですよね。
調べてみるとゲリラとはスペイン語で「小さな戦争」という意味になるそうです。
戦闘における戦術の名前で、正面から戦闘を行うのではなく、奇襲戦やかく乱戦法などの遊撃戦を展開すること。
主に自分より規模の大きい部隊に対して行う戦術ですね。
これに対し、テロとは目的を達成するために行われる殺戮や破壊行為で警告や脅迫を迫ること。
共通点があるとすれば、ゲリラもテロもどちらも政治目的による行為だということ。
だからね、時々巷で起きる無差別殺人事件があるとよくテロ行為だと報道されることがありますが、政治的なメッセージ性が無いものはテロではないんですね。単なる犯罪行為。
まあ、無差別テロの場合も政治目的のためとはいえ、やっていることは犯罪行為に違いはありませんが。
なぜ無関係な人を狙うのか・・・
彼ら少数派の意見は民主主義の中では切り捨てられるということは前編で言いました。
なので彼らの主張がメディアに注目される必要があった。
かつてハイジャックが流行ったのもメディアが大きく取り上げてくれるからです。
それで問題を解決できるとは思ってないでしょうが、少なくとも自分たちの存在や主張を世界に知らしめることが出来る。国際的な注目を浴びることに意味があったわけです。
前編では「暴力的な民主主義によって切り捨てられた少数派からテロが誕生した」と言いました。
過激派(テロ組織)に対し武力行使で鎮圧すればするほど報復テロの連鎖を生むだけだという考え方をよく耳にします。
ではテロ組織と話し合いすれば問題は解決できるのか?
というと、相手が過激派だとちょっと怪しい。
過激派(テロ組織)は平和なんて望んでいないんじゃないかな?とさえ思えます。
というのは、稀に穏健派と民主主義国家が歩み寄り、共存できる方法を探る場合がありますよね。
そんな時、過激派は同胞であるはずの穏健派をも敵視しますからね。
せっかく穏健派が平和の実現を模索しているというのに・・・
イスラムの過激派組織を例にすれば、
彼らは親イスラムのためではなく、反西洋主義(反民主主義)と戦うことに存在意義があるんでしょうかね。
自分らの存在意義を守るには常に敵の存在が必要?
平和が実現してしまうと自分たちの存在意義がなくなるとでも?
そう考えると、彼らの理念は単なる逃げ口上に利用しているだけということになります。
やっていることは犯罪行為ですからね。過激派テロ組織との対話路線は解決策としてはかなりの難題なのではないでしょうか。
だからといって武力でテロを撲滅できると考えるのは間違い。
麻薬犯罪や強盗犯罪が無くならないのと同じです。
結局は国連および国家間が連携し、テロに対し毅然とした態度で臨むほかないんじゃないかな。
テロ行為はどう考えたって「犯罪」ですよ。
でもそれは我々民主主義・世俗主義での常識であって、
彼らにとっては正義なのだから理解し合うのはかなり難しい。
世の中多数決で少数派を切り捨てる民主主義がテロを生んだとして、
では民主主義の本来あるべき姿勢、つまり多数決より話し合いを重んじ、テロ組織とどこで妥協するか、折り合えるか探ろうにも、
それは両者とも民主主義でなければ成立しないというジレンマがそこにあるわけです。
(いつか「宗教vs世俗」の時代が来るのかな SHIBA)