『日本のいじめ問題の背景にあるもの(前編)』 の続き
どうも、SHIBAです。
高度成長期、共同体は農村から会社へと変わっていきました。
会社の中で村社会が形成されるようになったわけです。
長いものには巻かれろ、出る杭は打たれる。
この意識は舞台が農村から会社へ移っても変わりません。
年功序列、終身雇用というシステムはとても日本的だったといえます。
ところが高度成長は過ぎ、会社はそのシステムでは生き残れなくなった。
実力主義やリストラ。
家族のような存在であった会社が、単なる会社になってしまった。
共同体の崩壊です。
「故郷」から「都会」へ移った人たちにとって、唯一会社が共同体の場所であったかもしれません。
共同体に頼れない、また頼っても意味がない。となれば、今度は「個=プライバシー」を重んじるようになります。
「おせっかいの風習」は必要としなくなったのです。
そして「空気を読む風習」だけが残りました。
定時で仕事が片付いても上司や同僚が頑張って残業していると自分だけ早く帰るのがなんだか悪いことのように感じる。もちろん会社から残るよう命令されているわけではない。堂々と帰っても良いはずなのに、空気を読んで自分も残業してしまう。
昔ならここで「気にしなくて帰っていいんだよ」とおせっかいな人のひとりぐらいはいただろう。
でも今はそんなおせっかいな人は絶滅危惧種で、仮におせっかいな人がいて「帰っていいよ」と言われても、空気を読んで帰らない。
本当に帰ってしまうと後で気まずくなる場合もあるからだ。
ホンネとタテマエの文化ですね。
かつては空気の読める人がおせっかいをしていたのに、
いつしか「おせっかい=空気の読めない人」になってしまった。
川崎中の事件では、
主犯とされている18歳の少年の犯行の動機は、男子生徒が顔を腫らしていることに気付いた部活の先輩らが、事件の8日前に、18歳の少年の自宅を訪れ謝罪を要求したことの逆恨みだったというではありませんか。
おせっかいな行動が犯行の動機となってしまったとしたら、
今後ますますおせっかいが出来なる社会になりそうで心配です。
でもこれが現実なのかもしれません。
いじめは「いじめっ子」と「いじめられっ子」の問題ではありません。
「傍観者」が大きな鍵を握っています。
日本のいじめの構造の特徴として、この「傍観者」の多さが挙げられます。
http://stopijime.jp/data/
統計データ:ストップいじめナビ
これは「傍観者の出現率の学年別推移」の国際比較です。
そしてこれは「仲裁者の出現率の学年別推移」です。
年を重ねるにつれ、、「仲裁者」(止めろと言って止めようとする)と「通報者」(先生に知らせる)が減少し、「傍観者」(別に何もしない)の割合が増えていくことが分かります(ストップ!いじめナビより)
成長すると空気を読むことを覚えていくようになる。
「おせっかいの風習」が無くなり「空気を読む風習」だけが残った結果、
このようないじめの構造を作ったのではないでしょうか。
傍観者は「事なかれ主義」ですからね。
村社会の悪しき部分がいじめの背景にあると思います。
日本においてはネットの世界だけが唯一、空気を読まなくてよい社会かもしれません。
一部を除くSNSなど匿名性の強いネット社会では、面と向かっては言えないことも平気で言える環境であります。
実社会とネット社会では、意見の潮流が真逆である場合がしばしばあります。
例えば韓国や中国に対する国民感情など。
実社会ではタテマエで過ごしてしている傍観者のホンネがそこにはあります。
もちろんネット社会の意見が真実だとは限りませんし、正しいとも言えません。
モラルの低い発言ですからね。
しかしネット社会の発言がモラルあるものにするには、
まず実社会において「脱・傍観者」になることから始まるんじゃないですかね。
ストップ!いじめ
(家庭内傍観者 SHIBA)