木下惠介 ・小津安二郎 両監督に学ぶ(後編)
さっきFAXをしていて、接続する時の
ピィィィィィー、ゴォォォォォ
という音を聞いて「FAX以外で昔にも聞いたことある音だな。何だっけな?」
と、何の音だか思い出せずモヤモヤしていたら、
今ほど「昔のインターネットのダイヤルアップ接続の音」だと思い出しまして、
妙にスッキリした気分の、どうもSHIBAです(前置き長いな~)
そうなんだよね。昔はネットに繋ぐ時必ずと言っていい程
ピッポッパッというダイヤル音の後に
ピィィィィィー、ゴォォォォォ
懐かしいね。平成世代は知らないだろうけど。
今ではサクサク繋がりますから、便利な世の中になったものです。
ただし、便利になったことと引き換えに、失われたものもあります。
木下惠介 ・小津安二郎の両監督の作品からそれが読み取れます。
両監督の作品から窺えたこと。
それは、昔は人々が共感し合い、喜びも悲しみも共有した時代だったということでした。
今の時代には無いものが昔の日本にはあった。
という意味で、「昔の時代は良かった」「昔のような暮らしに戻そう」と言っているのではありません。
今のような時代になったのは、「場」を「集団」から「個」の時代へ求めた結果であって、
今さら昔に戻すのはナンセンスです。
核家族化や近所付き合いの希薄化など、みんな望んでそうなったことですから。
つまり「無縁社会」になったのは必然だったといえるのですが、
それでもやはり無縁社会は問題であることには違いありません。
様々な人間関係をストレスに感じて「集団」の「場」を必要とせず、
「個」の時代を求めていた者ですら無縁社会は問題です。
答えは簡単です。
人間はそれでもひとりでは生きてはいけない。何らかの「つながり」が必要だからです。
SNSと呼ばれるツイッターやフェイスブックなどがその象徴です。
「個」を求める者こそ、SNSに依存しているようにも思えます。
また、SNSはセーフティネットになってきているとも言われています。
しかし、
僕は、これはこれで大問題だと思います。
『二十四の瞳』にこんな場面があります。
家が落ちぶれて村から出て行かなければならなくなったと泣いている女子生徒を、大石先生が抱きしめてこう言うんです。
「あんたが苦しんでるの、あんたのせいじゃないでしょう?
お父さんやお母さんのせいでもないわ。
世の中のいろんなことからそうなったんでしょう?
だからね、自分にがっかりしちゃだめ。
自分だけはしっかりしていようと思わなきゃね。
先生無理なこと言ってるようだけど、先生も他に言いようがないのよ。
そのかわり、泣きたいときはいつでも先生のとこいらっしゃい。
先生も一緒に泣いてあげる」
先生は別に上手なことを言っているわけではありませんが、寄り添う。
この寄り添うことが何より大事なことだと思い知らされます。
いま「無縁社会」に必要なのは、ネットで共感しあうことではなく、
この大石先生のように思いっきり抱きしめてやることだ。
ネットではこの体温は伝わらない。
ちなみにこの1分18秒からのシーンで少し観ることができます。
http://www.youtube.com/watch?v=JptRRM1wVbE
youtube 『二十四の瞳 予告』
アラピアでは、来月にシネマルームで上映する作品のひとつに
『はじまりのみち』
を用意しました。
映画監督・木下惠介の実話を元にした、母と子の真実の愛の物語です。
このブログの本文と映画の内容はあまり関係ありませんが、
映画に込められた思いの本質が垣間見ることができます。
(日本映画の良さを見直そう SHIBA)